先日、電車の中で画面のガラス部分が割れているiPhoneを使用している女性を見かけました。きっと落として割ってしまったのでしょう。常に慎重に生きるというのは難しいかもしれませんが、どうしても詰めの甘さを周りに感じさせてしまうのでぼくは気をつけたいですね。
少しの不注意で割れてしまう液晶画面のように、元来生物とはあっさりと死んでしまうものだと思います。地面を這う小さな昆虫を見て何となく石で潰して殺す。指で潰すのは気持ち悪いから石を使う。さっきまで生きていた蟻は一瞬で命を失うのです。人間は、知性と感情が殊に発達しているのが他の生物との違いとして挙げられますが、これが人の死ににくさの原因ではないのかと思うのです。指ではなく石を使って殺すという行為は、単純に触れたら気持ち悪いからというだけでなく触れたら自分にもなにか影響が出るかもしれない(例えば毒など)と思っているのかもしれませんね。
鳥は走行中の車に轢かれることはほとんどありません。たとえ地面に居たとしても、走行音を聞いてすぐに飛び立ちますね。人間も走行中の車に轢かれることはあまりありません。そもそも車道に立っていることが少ないからです。鳥は本能的に車から避け、人間は知性で以って、車は危ないということを予め知っているからこそ車を避ける事ができます。
中学時代の恩師がこんな話をしてくれたのを今でも覚えています。「日本人は津波と地震の怖さを知っている。そしてそれへの対策の術を知っている。これは実体験とそれから何よりも文明、技術の発達が支えとなっているという。耐震構造を持つ建築物や堤防、通信網による市民への呼びかけが今日の日本を支えている。一方、同じく地震や津波が頻発する途上国においてはどうだろうか。その国では地震が起きて建物が倒壊しても、それへの改善策を練らずに再び同じ構造の建物を建て直すという。だから地震による倒壊は繰り返され、そのたびに多くの人が死に、そしてまた同じ構造で再建されるのだ。更に津波に関しても、たとえば現地の人は迫り来る津波から逃げる姿勢を取らないという。頻発するとはいえ人は生まれ死ぬ。知識の伝承が行われていないとしたら、国レベルでそれらへの知識を持たないため、それが危険な現象だとも気付かないのである。津波を知らない人にとって、たかが数十センチのそれを恐怖することなどありえないのだ」
古代マヤ文明の人々は自分たちの民族が世界の中心だと思っていたでしょうから、マヤ文明の滅亡=地球の滅亡と考えたのかもしれませんし、もしくはマヤ文明は西暦2012年12月ころに滅亡し、すなわちそれまでは続いているだろうという予測だったのかもしれません。実は滅亡とは全く関係ないことを記していたのかもしれません。いずれにしろ、大昔の人や幻想を抱き続ける人が終末を思うのはとても楽しいですね。現代の人間が大昔のマヤ文明の人々と同じレベルの知性しかなかったならば、もしかしたら今頃地球は滅亡していたのかもしれません。
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