五等分の花嫁、原作は好きです。(アニメのED大好き。)
感情を失いつつあります。
デュビアと触れ合うことでしか"暖かさ"を感じられなくなりました。
デュビアを飼育していて気付いたことがあります。
(尤(もっと)も、前から気付いていて、ずっと気付いていないフリをしていただけにも思えます。)
それは「飼育者である私はデュビアを飼育しているが、凡(およ)そ個々は見ておらずデュビアの集合を見ている」という事実です。
-ゴキブリから学ぶ世界の在り方-
つまり、私は一匹一匹の様子はそこまで重要視しておらず、「デュビアの集合体が今どうなっているか」しか興味がないということです。
もちろん、脱皮直後の個体や死体は目立つ(それぞれ白い、動かない)ので、観測したならばその時は注目します。
が、それも翌日には、もっというと10分後にはどうでもよくなって忘れています。
私にとってのデュビアとは「群れなすもの」であり、その群れが「ちゃんと群れを形成していて」「概ね同じ方向を向いているのであればそれで良い」のです。
個としてのデュビアには何の価値も無いです。
タランチュラの餌として飼育している以上、一匹一匹を細かく見る必要など無いのです。
たくさんそこにいることが重要であり、一匹の生死は大勢に影響を与えません。
これは「ゴキブリ(d>1)とゴキブリ飼育者(b=1)」という狭い範囲に限らず、スケールアップした場合であっても汎(ひろ)く当てはまることだと思います。
例えば「あるコンテンツのファン(f>1)」と「そのコンテンツを代表する声優(v=1)」で考えてみましょうか。
声優はTO(トップオタの略、その範囲において最もファン活動に注力しているファンのことです。)や目立った言動のファンを観測したら、瞬間的には注目するでしょう。
ですがゴキブリ同様、翌日には忘れられていると思います。
声優にとってのファンとは「群れなすもの」であり、その群れが「ちゃんと群れを形成していて」「概ね同じ方向を向いているのであればそれで良い」のです。
声優は個としてのファンを見ているわけではなく、集合として存在している大勢のファンを「ファン」として捉えています。
悲しいですね。悲しいですがおそらくこれが真理です。
もっとスケールを広げても同じだと思います。
例えば「労働者と会社」とか「国民と国家」とか。
究極的には「人間と地球」とか。
コミュニティに属する最小単位の有り様(ありよう)など、そのコミュニティを俯瞰的に統べる者からしたらどうでもよいのです。
重要なのは「そのコミュニティがどうなっているか」なのです。
とはいえ、「観測者である自分自身」の目線で物事を常に捉え続けるのであれば、俯瞰的観測者の存在などどうでもいい、というよりは気にならないのかもしれませんね。
終わり。
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