家の内装もお菓子で出来ていることにヘンゼルは感動しているようでしたが、同時にグレーテルは絶望していました。理由はもう語る必要もないでしょう。件の物語に登場するお菓子の家の内装もまた、お菓子でできていたからです。
「食事はすぐに用意するから、勝手に家を食べないでおくれ。お菓子もちゃんと別にあるからね」
ビスケットのタンスを齧(かじ)ろうとしたヘンゼルをお婆さんは優しく注意します。そして言葉通り、暖かい料理がすぐに鼈甲(べっこう)飴のテーブルに並びました。ヘンゼルは我を忘れて飛びつきました。お婆さんがにこやかにそれを見つめています。グレーテルも流石に空腹を我慢できず、スープを口に運びました。その味の不気味な優しさが、彼女をより一層恐怖に陥れるのでした。
ああ、こうやって優しくして、油断させて、信用させて、安心させて、そうして隙を狙って食べるんだ……。お父さんが読んでくれた本と同じだ……。
なんとかしなきゃ……。
それからもお婆さんは二人にとても優しく振舞ってくれました。汚れてボロボロになったお洋服を直し、新しい靴や帽子を与え、美味しい料理を作ってくれます。ヘンゼルはすっかりお婆さんに懐いていました。グレーテルは常にお婆さんに対し不信感を抱いている様子で、お婆さんは魔女かもしれないという事をヘンゼルに相談しようとするのですが、いつもお婆さんがそばにいて離れないのでなかなかうまくいきません。夜寝るときは二人が寝静まるまでお守りをし、朝は二人よりも早く起きて朝食の準備をしているのでした。グレーテルがヘンゼルを連れて散歩に行くと言うと、お婆さんは二人じゃ危ないから私も行くよと、まるで二人を監視するかのようにいち早く準備をするのです。グレーテルは散歩を中止しました。
逃げられない。優しさから逃げられない。恐怖から逃げられない。
数日経ったある日のことです。
「それじゃあ、留守番お願いね」
二人を招き入れてからはずっと家に居たお婆さんでしたが、今日は何処かに出かけるようです。ヘンゼルは笑顔でお婆さんを見送ります。グレーテルは黙って下を向いていました。物語の中のお婆さんもこうやって出かけるのです。でも、何のために家を離れるのかを彼女は覚えていませんでした。それもそのはず、グレーテルの父親がそのお話を彼女に読み聞かせたのは随分と昔のことで、内容の大半を忘れていたのですから。あらすじは覚えていても細かなところはふつう気に留めないものです。記憶という名の拠り所が失くなってしまったグレーテルはひどく恐怖しました。この先どうなるかを知ることができない恐怖は彼女をより孤独にするのです。
お婆さんが出かけてしばらくは、それぞれが思い思いに時を過ごしていました。ヘンゼルはお婆さんから譲ってもらった不思議な鉛筆で絵を描くのに夢中です。グレーテルはそれでも何とか落ち着きを取り戻して、この好機を逃すまいと家の中を静かに探ります。
本棚に件の魔女の物語が載っている童話集を見つけたのは、ヘンゼルがお絵かきに飽きて、グレーテルにちょっかいを出そうとしたまさにその瞬間でした。
(続きます)
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