私は雰囲気で生きている。
雰囲気で生きているとはどういうことかというと、
つまりはこういうことだ。
私は全てにおいて、上記ポプ子のような状態で生きている。
『雰囲気で政治を語る』という例が分かりやすいかもしれない。
芸人のなんちゃらさんは、テレビにて雰囲気で政治を語りすぎたためにネット上でバッシングを受けた。
全く知識がないわけではないのだろうが、おそらく全体の10%程度しか理解できていない状態で、さも全てを知っているかのような口ぶりで語ったのが問題だったようだ。
私は雰囲気で生きている。
全く知識がないわけではないが、せいぜい全体の10%程度しか理解できていない状態にもかかわらず、さも生に明るいかのような顔ぶりで当然のように人生を歩んでいる。
私は理由も分からぬまま学校へ行っていた。
とりあえず行けばよいのだろうと、雰囲気で毎日学校へ行った。
私は雰囲気で学生をやっていたので、「学校に行きたい」とは思わなかった。
それどころか「学校に行きたくない」と毎日思っていた。
しかしながら、固い意思があったわけではなかったのだ。だから何となく雰囲気で学校に行っていた。
ふと、雰囲気で生きていない芯のある人ほど、不登校になりやすいのではないかと思った。
彼らは「学校に行きたくない理由」が強く存在し、それに従って行動選択をしたのだ。実に立派である。
高校、大学と進むに連れてその「何となくそれっぽい感じ」は高まりを見せた。
雰囲気で高校を選び、入学した。そこに意図や目的はなかった。
雰囲気で文理選択をした。そこに意図や目的はなかった。
雰囲気で志望大学を選んだ。そこに意図や目的はなかった。
雰囲気で学部を選んだ。雰囲気で選んだため興味はなく、何をするのかを知らぬまま受験まで進んだ。
雰囲気で大学受験をした。センター試験は3回受ける羽目になった。(実は+2なのだ。ワハハ。)
雰囲気で仕事を選んだ。
そして、雰囲気で、今に、至る。
私は雰囲気で仕事をしている。
業務上必要な知識がほとんど身についていないまま、今日まで過ごしてきた。
雰囲気でこなしている。
だから難題にぶつかった時、過去の経験則から可能/不可能を判断することが出来ない。
そして、雰囲気で組織内に身をおいているため、自分の置かれている立場や役割も把握していない。
いくつか任されているコトがあるようだが、その自覚は、はっきり言って、無い。
異常なレベルでデスクと引き出しが片付いているのは、私が整理整頓を欠かさず行っているからではない。
モノが何も無いから片付いているのだ。書類は会議後即シュレッダーである。この前はメモ書きごと粉微塵にしてしまったため、議事録を壮大な二次創作物にしてしまった。(でもどうにかなってしまった。雰囲気で仕事をしているのに「どうにかなってしまう」と次も雰囲気で仕事をする負のスパイラルだ。)
(ちなみに何故か私だけノートPCを付与されていない)(なぜ)(え、なぜ?)
私は少し前からギターを弾くようになった。
弾くといっても腕は素人だ。コードを抑える程度のスキルしかない。
人や本からいろはを学んだわけでもなく、自分の好きなようにやった。
まさに「雰囲気でギターを弾いている」のだ。
もともとの目標が「0を1にする」だったので、もはやこれは達成されている。
向上心はもう無い。全く出来ない人より出来るだけで満足なのである。
私は時計が好きだが、これも突き詰めれば雰囲気で時計好きを自称しているのだ。
知識はあくまで「時計に興味がない人よりはある」レベルであり、たかが知れている。
私はタランチュラを飼育しているが、これも雰囲気で飼育しているし、デュビアも雰囲気で飼育している。
唯一間引きを行った時は明確な目的があって行った。これは雰囲気じゃなかった。
間引く必要があったから間引いた。うむ。
他にも、例えばこのブログのhtmlやcssも雰囲気でいじっている。
雰囲気でいじったので、当然仕組みはよくわかっていない。
よくわかっていないが、自分の思い通りに動いてくれているのでこれでよいのだ。
私は、雰囲気で生きている。
コアユーザーがライトユーザーを毛嫌いする理由はここにあるのだと思う。
ライトユーザーというのは、まさに「雰囲気でやっている」率が高い。
「雰囲気でやっている」人はそれに対する熱意がどう考えても弱い。考え方が浅い。
それなのに好きであることをアピールしたりする。
真剣に向き合っているコアユーザーがそれを快く思わないのは、当然なのだ。
ここまで私の生き方について書いてきたが、オチを付けることができなくなってしまった。
しかしそれはそれで良いのだ。
今日のこのエントリーも雰囲気で書いているのだから。
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